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【書評】ギャングというアイデンティティ(工藤律子『マラス 暴力に支配される少年たち』)

【書誌データ】
工藤律子『マラス 暴力に支配される少年たち』
集英社 2016年 331頁

 

「マラスって言っても、そういう組織があるわけじゃないんです。凶悪な、ごろつきって言うのかな、そういう連中がマラスって呼ばれる。そう呼ばれる人々がいる、っていう感じですね。」

中米の在外公館に勤めていた知人はそう言って、「わからない」と両掌を広げた。
マラス。エルサルバドルなどで跋扈する青少年の凶悪犯罪集団。全身にタトゥーを彫り、都市の旧市街地などで縄張り争いをするギャング。

現地に駐在していた人でもわからない犯罪集団とは、何なのだろう。そんな興味から手に取ったのが、工藤律子によるルポルタージュである。

少年ギャングについて取り上げるといっても、数多くのストリート・チルドレンと接してきた筆者は、「マラス=根っからの犯罪者」という等式を採用しない。

「根は優しく繊細で、傷つきやすい子ども、若者に見えた。それがなぜ、人を脅し、カネを巻き上げ、時に殺すような犯罪に走るのか」(p.22)

これが、筆者の問いだ。

 

物語は2014年、メキシコにあるストリート・チルドレンの支援施設で、筆者がエルサルバドルから逃れてきた少年たちに出会うことで、始まる。

「仲間になるか、カネを貢ぐか、ギャングは若者たちに二つに一つの選択を迫っていた」(p.19)

仲間になるか、カネを貢ぐか――あるいは死か――
この「ギャング」こそ、中南米に跋扈する犯罪集団「マラス」だ。

だが、マラスの由来は、そもそも犯罪組織などではなかった、と筆者は言う。
「凶悪犯罪に手を染める若者ギャング団」(p.28)をひろく意味するようになったマラスという言葉も、もとは「極貧状態、家庭崩壊…(中略)…を背景に、ラテン系移民の多いカリフォルニア州で誕生した」(p.28)、米国発の「文化」である。そこで生まれたのは「独自の服装、タトゥー、ジェスチャー」といった「固有の文化」(p.29)であって、組織そのものではなかった。言い換えれば、「マラス」とはもともと、特定のサブ・カルチャーを共有する集団にすぎなかった。いわば、「オタク」のような総称に過ぎなかったのである。

「マラスは当初、暴力的なギャング団ではなく、単に新しい若者文化をもたらしたグループだったのです」(p.32)

 

しかし1994年から10年間で、マラスは本格的な犯罪組織へと変容を遂げる。内部から組織化を指示する幹部が現れる一方、政権側も暴力的な弾圧を開始する。犯罪組織化したマラスは、殺人、殺し屋、恐喝といった、素朴な凶悪犯罪を繰り返し、いつしかホンジュラスエルサルバドルを、「世界で最も危険な場所」のひとつにしてしまう。
だが、筆者はこれを、政府による弾圧策への「反射」としてとらえる。

「政府が「対応策」を考えるのではなく、「壊滅策」を打ち出したことが、本来、青少年の生活・教育支援課題であるはずの問題を、完全なる「治安問題」に変質させてしまった」(p.39)。

筆者の結論は、実はここに尽きている。
マラスの問題は、米国発のいわば「不良文化」に被れてしまった青少年の生活・教育問題であり、治安問題ではなかった。ところが、彼らの「不良文化」を(必要以上に)敵視した政府が「マラス=凶悪犯罪集団=治安問題」という枠組みを当てはめたために、弾圧と凶悪化の負のサイクルが生じた。

いまや、マラスの支配は刑務所のなかにすら及んでいる。政府側が許可した囚人へのインタビューであっても、刑務所のなかの「ボス」がノーと言えば実施されない(p.47)。

 

「現役」のギャングの声を聞き取れなかった筆者は、かつてのメンバーたちを訪ね歩く。教会のカリスマ牧師補佐になった「アンジェロ」(第2章)、ラップ・ミュージシャンの「ネリ」(第3章)、メキシコに逃れて職業訓練を受ける「アンドレス」(第4章)。たしかにみな、繊細で傷つきやすい心を持っていたのだろう。崩壊した家庭に育っていたり、肉親をギャングに殺された恨みから「敵対組織」に加盟してみたり、ある意味では無邪気ですらある。

「子どもには親が、暴力や犯罪に関わることの間違いをきちんと教え、将来を応援してあげないとダメだって。それがないと、俺たちのような過ちを犯す」(p.226)。

マラスはこうした崩壊した家庭や地域コミュニティの、反転写像だ。
マラスに入れば、非合法とはいえカネが手に入る。「仲間」がいて、「組織」というアイデンティティを持てる。

「ストリートが家で、ギャング団が家族だったんだ」(p.134)。

 

犯罪組織がアイデンティティの供給源になる。「我々」と「奴ら」を線引きし、「我々」のあいだで仲間意識が共有される。「仲間」というものに居心地の良さを感じ、いわゆる「絆」を求める心性は、どこにでも見受けられるものらしい。私自身はそういった仲間意識のようなものは御免被りたい性分だが、そうした人々は日本でもありふれているのではないか、と思う。
なお、マラスは利益集団ではなく、アイデンティティの集団であるという指摘は、米国議会資料局の公開資料でも確認できる(Clare Ribando Seelke, 2016, Gangs in Central America, Congressional Research Service(RL34112))。

一方、マラスが、たとえばメキシコの麻薬カルテルのように、利益で結びついた組織ではなく、地縁からも血縁からも見放された少年たちが、アイデンティティを求めて屯した集団であるのなら、彼らを法と力で抑え込むのは効果的とはいえない。筆者のロジックは一貫している。

「当事者たちを「スラムの隅」か「刑務所」、あるいは「あの世」」(p.313)に送るような政策では、彼らは希望ある未来を構想できず、根本的な課題の解消に至らない。そこで必要なのは、未来の選択肢を提示する仕組みであり、それを可能にする教育であり政策、ということに行きつく。そしてそれが、筆者の結論でもある。

 

マラスを社会的な「被害者」として描き出し、我々の視界からはあまり見えない中米社会の暗部を、うまく紹介している本書の試みは、成功している。
マラスを治安問題として対処することで、問題の根本原因にアプローチできていないという主張は、政治・社会的アプローチとしてはかなり凡庸だが、ルポルタージュという性質上、ここでは問題となるまい。

私が本書のなかで気になったのは、「神の救済」という、ギャングの手から逃れる選択肢を安易に称賛しすぎていることだ。第2章に登場する「アンジェロ」が典型例だが、マラスの大物から牧師補佐へと「転身」を遂げ、こんどは人々を導く役割に立とうとする。
本人がそれで救われ社会的な安寧が得られるのは結構なことだが、そこに一抹の危うさを感じないわけにはいかない。というのも、こうした「救済」を得た「アンジェロ」は、アメリカ南部に広がるエヴァンジェリカルズ(福音派)のいわゆる「ボーン・アゲイン・クリスチャンズ」と極めて似通っているからだ。

「突然キリストが現れ、”私とともに来ますか?”とお尋ねになりました。」(p.93)

「神が私を変えようとしてくださっている!」(p.94)

こうした改心経験は、神のメッセージがストレートに個人に伝えられ、人々はキリストを見出すという、ビリー・グラハムの教義とほぼ同じだ。グラハムの教えは、キリストを個人的な救世主として見出すところに特徴があり、そうした「改心」を経たひとりがジョージ・W・ブッシュ元米国大統領だったことを、見逃すわけにはいかない。
なぜかというと、こうした「個人の救済」はときに、「神の呼び声」を聞かない人民への侮蔑や敵意に、そのまま転向するからだ。いま「アンジェロ」は、改心を経てギャングたちに改心を促している。しかし、彼の呼びかけに答えない人々に、いつか彼が愛想をつかしたとき、何が起きるだろうか。あたかも政府が行ってきたように、「神の声を聴かぬ愚か者」として弾圧の対象として正当化することもまた可能なことを、見落とすべきではない。
この点で、「アンジェロ」たちの救済は、いまだ「未完」なのかもしれない。彼らがポピュリスト的な政治に絡めとられ、「神の救済すらバックアップに得た政府」と「神の言葉すら聞かぬならず者」という対立構図を作らないとも限らない。そのとき、マラスは徹底的に殲滅され、すべての居場所を失うだろう。そうした悪夢が、本書の読後に脳裏を過った。